♪BGM「ミライノカケラ」
(「未来」よりアレンジ )

「未来」への道のり…

そもそも「未来」と言う曲が完成したのが俺が22歳の時であった。
暇な文系大学生だった俺は、いつかは世に作品を出そうともくろんでいた。
兄貴以外の人は冗談半分にとっていた。
実際、俺も自分をどこまで信じていいのか、結果がない以上わからなかった。

この曲の原案は車の中で深夜思いついた。そしてトルコ共和国に滞在中に
だんだん完成が見えてきた。夏だった。
帰国後、シーケンサー(ROLAND PMA-5)を購入した俺はまっさきに未来のバックを打ち込んだ。
当時リアルタイムで弾く知識がなかったためすべてSTEP打ち込み。
そして完成した「未来」のデモ。

なぜ俺が「未来」にこだわったかと言うと・・・
当時俺は就職をするか音楽家を目指すか真剣に悩んでいた。
我が家は教育家庭で、当然一流企業と期待されていた。
それが良いのか悪いのか、それは本人が感じることだ。
俺は4人兄弟の末っ子だから、親の示す道を歩む兄弟を見てきた。
だけど・・・どうしても俺には踏み外す勇気が必要だった。

不安症候群、別名パニックディスオーダー、パニックアタック。
こんな病気にかかったのはまさにこの時。
東京で一人暮らしをする俺はろくに何も食べず
タバコと缶コーヒーで暮らしていた。
そんな中、どことなく神経過敏状態が続き、病気という結末をむかえた。

呼吸困難、外に出れない、車に乗れない、テレビが怖い、電車に乗れない。。。
あらゆる症状が俺を襲う。
単純にいえば当たり前のことが出来なくなったんだ。
ここで苦しかったのは、精神状態がそれほど崩れていないのにも関わらず
思い通りに行かないという変わらぬ現実だった。

病院では何度も誤診を受けた。「風邪」といわれた。
「過喚起症候群」とも言われた。確かにこれは間違いやすい。
結果病院、医者不信になった。
それもそのはず、当時日本ではあまりメジャーな病気ではなかったのだから。

森田療法という半スパルタ的な治療によって俺は回復に向かった。
ここで父が紹介してくれた慈恵医大の伊藤先生に感謝の気持ちをささげます。病気の話はこれくらいにしておこう。

就職は実は決まった。大学4年の時。勘違いしないでおくれ、自慢ではない。コネみたいなものだ。
TOYOTA自動車。大学の先輩が就職活動中、悩んでいる俺にこういったんだ。
悩んでいるのは良いこと。ただ今出来ることがどちらかを考えて行動しなさいと。
一方的に「音楽家になる」といえば小ばかにしてくる人とは違い、彼の言葉は俺を動かした。渡辺さんだ。

この就職活動中に運命的な出会いをする。「大出」だ。いつ何時でも俺の心を支えてくれた相棒だ。
病気のことを理解してくれて、恋愛なども理解してくれた。
俺と性格は反対。だからこそ尊重しあえるのかもしれない。彼は今やTOYOTAの中核人物だ。

俺が内定を辞退した日。
大きな決断だった。よもや自分の将来をすてたような決断にさえ思えた。
正直めまいがした。

そんな時、ひとつの曲が俺を慰めてくれた。
「未来」だ。

「君よ、信じるものへ情熱の限り向かえばいい」
「あの日君が失くしたもの(夢、情熱)は今もそこにあるじゃないか」

去り行く友人たち、彼らは俺を置いて大人になっていく・・・そんな気持ちの中で。

大学卒業後、大塚にある東京ソングライターズクラブでボーカルオーディションを受けた。
ピアノ弾き語りで「未来」を奏でた。
このときに審査員としていらっしゃったのが「川又プロデューサー」であった。
一度目は何も起こらなかった。
二度目に受けた。
たまたま審査員のキャンセルでまたまた川又プロデューサーが来ていた。
「一緒にやらないか・・・」
ここからがアルバム「未来」の始まりだった。

今でも覚えているが、川又さんの審査結果・・・
「君、英語の発音がわるいね」
「オーストラリアに5年住んでいました」
「そ、そう・・・」

人生なんてやったもん勝ち!
これからさらなる飛躍に向けていっそう努力します。
正直・・・あの頃は泣きつかれた・・・

<back to top>